K区役所愛情創出室

一路 真実
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 突然部屋に入って来た青白い顔のサチコに、遠藤はぎょっとした。いつもは自分が訪ねない限り、ほとんどの時間顔を合わせない。婚姻課の職員など誰も残っていない深夜に、サチコはゆらゆらと遠藤に近づいてきた。
「遠藤さん、やってしまいました……」
 マスカラが落ちたのかと思うほど、黒く染みついたくまが目につく。ほとんど開いていない瞼からじっと見つめられると、部屋の暗がりの部分からこの世のものとは思えないものが這い出して来そうな気持ちになる。
「どうしたの」
 そうした遠藤の心とは裏腹に、口から出た音は低調で、室内にシンプルに響いた。
 遠藤は、怖がりで小心者だ。すぐ緊張してトイレへ駆け込む。しかし、そうした体の不調を皆に気付かせないほど、淡々とした話し方と振る舞いで、元来友人からは冷静で人間味のない奴と半ば嫌みを含んで言われてきたのだった。
「ここの文言なんですけど……」
 サチコが開いたページには、荒木俊彦という人物の恋愛設定が記載されていた。サチコはその上に何も言わずに紙を置いた。それは荒木俊彦の死亡届であった。
「荒木俊彦は既に亡くなっていたんです。付箋が付いていなかったから、気付かないまま最後まで処理を終わらせてしまって……。亡くなった人との恋愛関係を設定してしまったんです」
 サチコが処理した案件は、遠藤を通ってから、課長が決裁する。しかし、実際のところ、遠藤がほとんど全ての誤りを見つけ、サチコへ戻してやるのが常であったため、課長は中身をじっくり見ることはなかったのだ。
「俺がチェックした後に亡くなってしまったのか」
「しかも、重豊由美子と亡くなった荒木俊彦は全く接点がなく、この設定で出会うんです。出会いがなければ別れも生まれない。重豊由美子はどうなるんでしょうか……」
 ミスに気付けば修正できた が、サチコは気付かないまま決裁の終わった案件を処理に掛けてしまったのである。重豊由美子が荒木俊彦と出会わない限り、次の設定を付けることができな い。つまり、亡くなった荒木俊彦と顔を合わせない限り、一生恋愛ができないということになる。遠藤はふうとため息をついて頭を抱えた。
「さて、どうするかな」
 頭を抱えてみたものの、内心 パニック状態であった。必死で頭を回転させ、これまで似た事例がなかったか頭の中の引き出しを開けて探すのだが、途中で心臓の鼓動が邪魔をして、引き出し を荒らしてしまう。腹が痛くなり始め、きゅるきゅると下腹部を絞り上げてくる。遠藤はおもむろにファイルを取り、サチコに見せた。
「ほとんど今までしたことないけど、この条文を使って、立入検査をしてみようか」
 遠藤はサチコの肩に手をかけた。
「何とかなるよ。俺に任せて」
「……はい」
 今にも霊界へと連れて行きそうなサチコの顔を見ながら、遠藤は肩に置いた手が震えないように力を入れていた。
 
  重豊と書かれた表札の前で、遠藤は悩んでいた。一番の問題は、どのように立入検査を行うかということであった。一般に知られていない法律であるため、本当 の理由を知らせる訳にはいかない。しかし、設定された現実のせいで重豊由美子と亡くなった荒木俊彦の関係性がどのように変わったのか分からなければ対策の 取りようがない。ここ何日かターゲットを尾行し、観察してきたが、有力な情報は得られない。友人と思われる者何人かとも接触したが、亡くなった荒木との接 点が全くなく、二人の関係については情報が得られなかった。
「こうなったら直接本人に聞くしかない」
 遠藤はインターフォンを押した。
 
 通された居間で、開口一番、
「最近、公務員の人気も落ちてきておりまして、K区役所の新たな取り組みとして、学生さんのニーズを把握して優秀な人材確保ができるプロモーションを行うということになりました。厳選な抽選の結果、由美子さんにお話をお伺いしようということになりまして」
 と、遠藤は捲し立てた。母親はにこやかに遠藤を由美子の部屋に通した。遠藤は垂れてくる汗をハンカチで拭きながら、椅子に座った由美子を見つめる。
「あらゆる話を聞かせてもらって、何か学生さんに響くようなプロモーションができないかと思ってるんだ。何でもいいから、最近感じてることを話してもらえないかな」
 由美子はぽつぽつと話し始めた。黒いストレートの髪をした由美子は、おとなしく真面目な印象で、慎重に言葉を選びながら俯き加減で話していた。遠藤とはあまり目を合わせようとしない。大学の話や仕事への考え方などを一通り話した後、
「最近の学生はこんな感じだと思います」
 と締めくくった。遠藤は真剣にメモを取っているふりをしていたが、心の中では恋愛の話をいつ切り出そうかと焦っていた。話が途切れたのですかさず、
「ところで……由美子さんは好きな人とかいるの?」
 由美子は質問に少し戸惑ったように目を泳がせたが、すぐに大学の話をしていた時と同じような調子で、
「いいえ。いないです」
 とだけ呟いた。まだ突っ込めるか、ここで引くべきかと遠藤が迷っていると、由美子が沈黙を遮るように言葉を繋いだ。
「何かこう……不思議な気分なんです。出会うべき人がこの世にもういないような気がして。私、もう恋愛できないんじゃないかって思ってるんです」
 その発言に、遠藤は思わず、由美子の母が持ってきたお茶をひっくり返しそうになり、握っていたハンカチでテーブルの雫を押さえた。
(付与した設定によって、人の心に少しずつ影響が見られる。由美子さんはもう本当に恋愛ができないかもしれない。)
 
 夕暮れ時になり、玄関まで見送りに来た由美子は、笑顔で
「私でよければ、またいろいろお話しますから。頑張ってください」
 と言い、小さく手を振った。
肩を落として、遠藤は歩き始めた。アスファルトに落ちる影が細長く伸びる。ゆらゆらと揺れる影が、どうしようどうしようと嘆いているようだった。
しばらくして遠くから由美子が叫ぶ声が聞こえた。
「遠藤さん、待って」
 振り返ると、由美子がつっかけを履き走って来る。遠藤がテーブルに置き忘れてしまったハンカチを握りしめていた。
あと数歩というところで、由美子は突然つまずいた。慌てて遠藤が体を受け止めた拍子に、鞄が手から離れ、中に入っていた荒木俊彦の資料が滑り出た。
「あっ……」
 アスファルトの上にばらばらと散らばった資料を、遠藤の腕の中で由美子は見つめた。資料に貼付されていた荒木俊彦の写真を見た由美子は、遠藤からさっと体を離すと、みるみるうちに顔を赤らめていく。遠藤はとっさに資料を横目で見た。
「荒木俊彦と重豊由美子は、道で倒れかけた由美子を俊彦が助けることで出会う」
 由美子は資料を拾い上げ、遠藤に手渡しながら言った。
「この方、どなたですか?」
 
 道でつまずいた由美子を体で 助けたのは遠藤であったが、結局は荒木俊彦の案件があったから遠藤は由美子と知り合うことになり、それによって由美子は道端で膝を擦り剥くこともなかっ た。つまり、荒木は間接的に由美子を助けたということになった。結局、サチコが曖昧な設定をしていたおかげで、重豊由美子は荒木俊彦と出会うことができた のだった。
しかし、役所に戻ってから、遠藤とサチコは部長室に呼び出され、こんこんと説教を受けた。部長室を出て、廊下を歩いていると、サチコが大きな溜息をついた。
「私、遠藤さんがいてくれて、本当に良かったと思います。今回の件だけじゃなくて、私が波風立てずに仕事をしていられるのは遠藤さんのおかげなんだって思ったから」
 遠藤が立入検査をしている 間、サチコは膨大な電子チップの波で溺れながら、遠藤のことを考えていた。遠藤が言ってくる細かいことはサチコを荒波から守るためなのだ。そのまま何もさ れず放り出されたら、サチコは自分の力だけで広大な海を泳ぎ切るしかない。婚姻課の職員が全員帰っても、遠藤は深夜まで残ってサチコの処理した案件を再度 隅々までチェックしてくれていたのだ。
「まあ、今後は気を付けたらいいよ」
 言葉はまた淡々とした調子で飛び出したが、遠藤はサチコにストレートに褒められたことで心臓が熱くなり、息が苦しくなっていた。
「遠藤さん、顔が赤い。体調悪いんですか」
 心配して下から覗きこもうとするサチコの顔を遠藤はまともに見られなかった。
「部長に怒られたからね。疲れただけ」
 そう言って、慌てて部屋へと戻って行く。サチコは首をかしげ、遠藤の後をゆっくり追いかけた。
 
 
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