K区役所愛情創出室

一路 真実
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 「え?」
 聞き返したサチコに、顔を近づけた遠藤は小声だがはっきりとした調子で繰り返した。
「だから、僕は土居さんが今までしてきた恋愛を全て知ってるよ」
 サラリーマンでひしめく居酒屋の喧騒から、遠藤の言葉を一言一句漏らさずに聞き取ったものの、翻訳するのにあまりにも時間がかかり、サチコはしきりに前髪を触ってうつむき加減に呟いた。
「すみません、ちょっとトイレに行ってもいいですか」
 慌てて立ち上がり、他の客にぶつかりながら急いでトイレへ駆け込む。
 ――私の恋愛を全て知っている?
 
  今朝、サチコは就職活動以来、陽に当てていなかったスーツを身に着け、S市役所の新入職員として辞令を受けていた。配属先の先輩職員に付き添われ、同期が 一人また一人と部屋を出ていく中、サチコ一人だけが最後までだだっ広い会議室に残された。そして、ようやくふらっと現れた遠藤に連れて行かれた場所は、K 区役所の暗い一室であった。
「ようこそ、社会愛形成部愛情創出室へ。ここが、君の部屋。自由に使っていいよ」
 きょろきょろと見回したが、部屋には窓がなく、壁が所々剥げ落ち、書類に埋もれた机に一台のパソコンが置いてある。まるで隔離された病室のような冷たい空気が漂う。遠藤はそれだけを淡々と告げると、部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待ってください。他の職員はどこにいるんですか」
「愛情創出室は婚姻課内にある課内室なんだ。ただ業務内容が少し違うから、分室になってるんだよ。室長は課長が兼務、職員は土居さんしかいないよ。俺も本室の婚姻係にいるから、土居さんへ引き継ぎが終わるまでは業務に関わるし、心配しなくていいよ」
 サチコは黒光りするリクルートバックから、慌てて今朝配布された組織図を取り出した。
「社会愛形成部……」
 社会愛形成部の中には、婚姻課、子育て課、男女参画課など、家族形成に関する課が並び、婚姻課には婚姻係を始め複数の係名が記載されているが、愛情創出室などという名前はどこにも存在しない。
「そんな名前ないですけど」
「ここは極秘部署だから、パンフレットにも組織図にも書かれない。表向きには土居さんは婚姻係所属ということになっている。この室の存在は婚姻課の人にさえほぼ知られていないんだ」
 と、遠藤は当たり前の呪文を繰り返すように澱みなく言った。
「一体、何の仕事をするんですか?」
「世間から隠されている秘密を扱う部署、とだけ言っとくよ。今夜、歓迎会するからその時にでも」
 そう言うと、遠藤はそそくさと出て行ってしまった。
 
 その日の夜、遠藤とサチコは、居酒屋のカウンターに並んで座っていた。酔っ払って赤い顔をした課長がサチコたちに言う。
「土居さんは期待の新人だからね。立派に遠藤君の仕事を引き継いでもらわないと」
 はあ、と曖昧な返事をしながら、お通しで出された切干大根を箸でつついた。
「私も、十年目でやっと後輩ができましたからね。これで心置きなく異動できます」
「長くなって悪かったなあ」
 サチコを挟んで、二人が笑いながらビールジョッキを合わせて乾杯した。自分も遠藤のようにこの先十年間もあの密閉された檻の中で、一人で同じ仕事をするのかと思うと、サチコは気が気でならなかった。その様子を察してか、課長が檄を飛ばした。
「これは重要な政策なんだよ。大きな声では言えないが、人は政府の恋愛施策がないと、結婚もできないし、子孫が残せない生き物なんだ」
  しばらくして、課長は婚姻課の歓迎会へと慌てて戻って行った。課内室とはいえ、サチコは業務の秘匿性により他の課員との接触を極力避けねばならず、同じ課 でも存在が認識されていない。ゆえにサチコは課の歓迎会にも出席を許されておらず、不憫に思った遠藤と二人きりで歓迎会が再開されたのだった。
 そして、その時に言われた言葉が、
「僕は土居さんが今までしてきた恋愛を全て知ってるよ」
 である。
 
 サチコは便座に腰掛け、頭の中を冷静に整理しようとしたが、お酒のせいか余計に思考が絡まり、心臓がドンドンと合の手を入れる。しばらくしてようやく席に戻ると、遠藤に向き直り言った。
「結局、私の仕事は何なんですか」
「土居さんは自由恋愛を信じてる?」
「話を逸らさないでください」
「何かに恋愛を煽られていると感じたことはない? 例えば、漫画や小説、映画に音楽、コマーシャルにまで、街には恋だの愛だのをテーマにしたものが溢れているよね」
「そうですね」
 サチコはジョッキを持ち上げ、泡の消えたビールを一口飲んだ。
「君の恋愛は、本当に君が選択したものなのかな?」
 そう言うと、遠藤はサチコの瞳を覗き込んだ。
「恋に落ちたんじゃなくて、誰かに落とされたんだとしたら?」
 サチコは目を逸らして笑った。
「遠藤さん、冗談が過ぎますよ」
「そうだね。土居さんは大学時代の井上君のことをまだ忘れてないから、新たな恋はできないんだろう」
 そう言うと、遠藤は素知らぬ顔をして皿に盛られた唐揚げをひょいと摘んだ。
「……どうして、井上君のことを知ってるんですか」
「井上君がした浮気は、僕が仕掛けたことだからね」

 

 

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